医院の歴史



ここでは木村医院の歴史をご紹介いたします。
ただ長く続いただけと言ってしまえばそれまでですが、先祖代々地域医療の一端を担って来たと自負しております。


■歴代院長
代目 名前
※初代以下全て木村姓
時期・逸話 その時代の主な事柄
初代 喜間右衛門
(きまえもん)
寛政年間(1790年頃)~文化3年(1806年)

・場所は宝地村
(現在の長岡宝地町)
・江戸幕府:11代家斉
・寛政の改革
・東海道中膝栗毛出版
(1802)
二代 要貞
(ようてい)
字は重愷
(じゅうがい)
文化3年~文化10年(1813年) ・江戸幕府:11代家斉
・間宮林蔵が間宮海峡を発見
(1808年)
・ゴローニン事件(1811年)
三代 古立
(こりつ)
文化10年~文政10年(1827年) ・江戸幕府:11代家斉
・南総里見八犬伝開始
(1814年)
四代 閑斎
(かんさい)
文政10年~天保3年(1832年) ・江戸幕府:11代家斉
・シーボルト事件(1828年)
・富嶽三十六景版行
(1831年)
五代 叔庵
(しゅくあん)
天保3年~慶応3年(1867年)

・晩年に関原町に移住。
・屋号は「梧桐亭」
・江戸幕府:家斉→15代慶喜
・大塩平八郎の乱(1837年)
・ペリー来航(1853年)
・大政奉還(1867年)
六代 謙哉
(けんさい)
慶応3年~明治23年(1890年)

・明治2年長岡に先駆け種痘治療を行う
・屋号は「嶺北館」
・牛肉食やランプの移入など、新しいものが好きだった
・戊辰戦争(1867~1869年)
・富岡製糸場開所(1872年)
・鹿鳴館完成(1883年)
・大日本帝国憲法制定
(1888年)
七代 貞哉
(ていさい)
明治23年~昭和5年(1930年)

・明治14年東京大学医学部卒業。
・屋号は「木村医院」
・謙哉~貞哉の時代、関原村にコレラが猛威を振るう。二人は褌一丁で村民の家を周り治療を行う(褌一丁なのは衣類にコレラ菌がつかないようにするため。帰宅次第すぐに風呂に入って菌を洗い流したとのこと)
・日清戦争(1894~1895年)
・日露戦争(1904~1905年)
・大正デモクラシー(1910~1920年頃)
・国際連盟発足(1920年)
・関東大震災(1923年)
・世界恐慌(1930年)
八代 鎌治郎
(かまじろう)
昭和5年~昭和32年(1957年)

・明治41年千葉医専(現・千葉医科大)を卒業
・五・一五事件(1932年)
・二・二六事件(1936年)
・第二次世界大戦(1940~1945年)
・GHQ解体(1952年)
・自衛隊設立(1954年)
九代
(たけし)
昭和32年~平成5年(1993年)

・昭和11年東京医専(現・東京医科大)を卒業。
・軍医としてビルマまで転戦。
・終戦後木村医院を継承
・学校医や町内会長を務めるなど地域貢献に尽くした。
・東京五輪(1964年)
・大阪万博(1970年)
・オイルショック(1973年)
・バブル景気(1986~1991年)
・ソビエト連邦崩壊。ベルリンの壁崩壊(1989年)
十代 嶺子
(れいこ)
平成5年~平成23年(2011年)
・長野五輪(1993年)
・阪神淡路大震災(1995年)
・アメリカ同時多発テロ(2001年)
・愛知万博(2005年)
十一代 慶太
(けいた)
平成23年~ ・東日本大震災(2011年)
・新潟福島豪雨(2011年)
・新型コロナウイルス大流行(2020年)


■往診の乗り物も時代とともに変わりました
資料によれば、六代目謙哉は「駕篭、馬、牛、人力車、橇(そり)」を使って往診先を回ったとの記録が残っています。また、八代目鎌治郎は「人力車、自動車、冬は橇」だったそうです。雪深い冬の往診は「橇」だったんですね。


九代目猛が愛用していた往診カバン。
どんな雨風でもこのカバンを抱えて患者様のお宅を回っていました。

*当院には先代から伝わる医療器具などが多数残されており、令和5年3月より展示を開始しております。

 
医学書(奥)・7代目の処方録(手前左)と家族の処方録(手前右)


異なる時代の医療道具(手前)と野口英世が長岡に来た時に撮影された集合写真(奥)

上の写真拡大(上)とその裏に書かれていた人物名を照らし合わせたもの(下)。
裏に書かれたもののまま記しているため、敬称略とさせていただいております。



漢方を入れていた百味箪笥(奥)・冬季の往診時にそりに載せていた暖房器具(手前左)
生薬などの薬材等をひいて粉末にしたり、磨り潰して汁を作るための藥硏(やげん)とすり鉢(手前中央)

消毒窯(左奥)・顕微鏡(右奥)・大正期の軟膏を煮る片口の鍋(左手前)・
アルコールランプ(手前中央)・手術時等に使用する膿盆(右手前)。

展示棚全景